〈香野広一のPoemサイト〉

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   ■  Essay  

   

■「木喰上人(もくじきしょうにん)の足跡」

昨年の11月に、東京の駒場にある日本民芸館を訪ねた。私は以前から写真や
本等を読んでいると、実物を拝見したいという願望が募ってきて、足を運んだ。
それは木喰上人の仏像である。昂揚する心を抑制しながら、ガラスケースの中に鎮座
している3体の仏像を拝見すると、見入ってしまって、そこから離れることができなかった。

それは永い間の念願が叶ったと同時に、思っていたよりも大きくて、ほほえんでいる
作品が素晴らしく、しかも素朴な仏たちに、感動してしまったからである。

私は仏像を拝見するのが好きで、いろんな神社仏閣を巡ることが多い。あるいは
美術館等で開催されている国宝の仏像展を拝見するために、いろんな所を
巡ることがある。

木喰上人は、約300年程前に山梨県の下部町に生まれたと言われているが、
200年近く、明確なことが知られていなかった。ところが偶然に、民芸学者の
柳宗悦によって、その正体が徐々にではあるが、明らかになってきたが、いまだに
謎の多い上人である。

木喰上人は91歳まで、約1000体の仏像を刻んだと言われているが、600体位が
発見されていて、北は北海道から南は九州までの足跡が残っている。その証拠に
山梨県の廃寺の奥の方に、ほこりにまみれた『納経帳』2冊と『御宿帳』、それに
『和歌集』や掛け軸等が発見された。そこに記入されているのは、60歳を過ぎてからの仏像が
多い。神社やお寺、それに民家に宿って、鉈やノミ、それから小刀等を使って、夜中に作り
続けたと言われている。そして仏像の裏側には、年月日と作られた場所が書かれてあった。

木喰上人は僧侶なので、仏様に向かってお経を唱えたり、あるいは庶民や困窮している
人達のために、悟りや励ましの言葉を伝えながら、次から次へと歩き続けた。

80歳を過ぎてからも衰えることはなく、強靭な体力と精神力で大勢の人達の安寧を
祈りながら仏像を刻み続けた。そして真心の込められた仏像は、多くの人達に差し上げて、
幸運を願ったのである。そのような寛大な木喰上人であったから、尊敬されて方々を
巡ることができたのだと、私は思っている。

                    「漪」第47号

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■ 「あの日、あの頃」

 

私が初めて「文藝首都」の例会に出席したのは、二十一歳で、文学に憧憬した頃であった。

会場にはすでに、百人前後の人達が出席されていて、畳に坐ったままの姿勢であったが、
テーブルの上に置かれた「文藝首都」という同人誌に眼を通していた。毎月発行されている
「小説と評論」の雑誌を真剣に黙読していた。

上座には和服姿の男性が坐り、その両側には女性の着物を着た人達が正座していて、
その間に男性達が背広にネクタイをしている姿に、私は違和感を抱きながら、下座で様子を
窺っていた。
例会が進行すると、いままでの雰囲気とは様子が一変した。じっと沈黙していたものが堰を
切ったように、次々と忌憚のない意見を述べ合っているのを、私は静かに耳を傾けていた。
例会が終わった後は、その場で宴会になると、更にお互いが饒舌になった。

私は二〜三年の間は気楽に出席していたが、次第に名前と顔が判明するようになると、素晴らしい
作家たちの集団であることに驚嘆した。その名前を列記すると、芝木好子、大原富枝、北杜夫、
田辺聖子、なだいなだ、中上健次、林京子、田畑麦彦、佐藤愛子、勝目梓等の芥川賞や直木賞の
受賞者だけではなく「群像」や「新潮」の受賞者を加えると、かなりの人数になる。

今年の六月に他界したなだいなださんは、六回の芥川賞の候補になったが、受賞することは
なかった。田畑麦彦さんは「嬰への短調」で第一回の「文芸賞」を受賞したが、話題にはならなかったが
同時に受賞した高橋和巳さんの「悲の器」は脚光を浴びた。
田畑麦彦さんと佐藤愛子さんは夫婦であったが、佐藤愛子さんは後に「戦いすんで日が暮れて」で
直木賞を受賞したが、まだ受賞していない頃に、私は何回も居酒屋に誘われて一緒に話し合った。
中上健次さんも同席していたが、中上さんはコップに入っている酒を水を呑むようにしながら
「文学論」を流暢に話をしていると、佐藤さんも大きな黒い瞳を輝かせながら、中上さんに
挑戦するように熱弁をふるっていた頃が、鮮明に私の脳裏に浮かんでくる。

                「漪」第36号
  

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■  「暗闇の奥に潜んでいるもの」

(前篇……略……)

 例えば、自由律俳人の尾崎放哉や種田山頭火も、闇夜と深くかかわりながらの放浪が
続いたと思う。泊まる所を探すためには、いろんな場所を彷徨する日々で、安息することは
少なかったのではないかと思う。それでも放浪の生活を続けたのは、心の深奥に感傷的な
苦悩が潜んでいたからではないかと推測する。

良寛は新潟県の五合庵で暮らしていたが、冬は雪深くて、樹木に囲まれた寂しい所で生活を
していたので、厳しくて辛い日々であったに違いない。
私は二十代の時に、三回ほど五合庵を訪ねているが、非常に不便な所であった。だから良寛は、
人が恋しくなって、高い山から里山に下りてきて、乞食(こつじき)の行脚を続けたのかも知れない。

私達が闇夜を体験したのは、六年前に起きた東日本大震災と福島の原発事故によって、
パニックになったように、便利さだけを求めて、電気に依存してきたことの脆弱さを露呈して
しまった。この様なことが起こらないように、自然界の仕組みを把握すると同時に、
いろんな事を真剣に考えなければならない時である。

  

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